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解説!『パリスの審判』
ワインの世界に大きな影響を与えた、1976年のパリでの試飲会。 「パリスの審判」と呼ばれるその試飲会を、あれこれ考えながら解説してみたいと思います。
by Wine-Link
最終更新日:2023-11-02
目次
「パリスの審判」の名前の由来
「パリスの審判」というのは元々、ギリシャ神話の中のトロイア戦争のきっかけとなった事件の名前です。
とある結婚式。式に呼ばれなかった戦いの女神エリスが腹を立て、「最も美しい女神へ」という黄金のリンゴを祝宴の場に投げ込みました。その黄金のリンゴをめぐって、ヘラ、アテナ、アフロディテの3人の女神が争いとなります。
その争いの審判役を押し付けられたのが若きパリス。彼は、3人の女神から、買収とも言える見返りを提示された中で、アフロディテを選ぶ、という審判を下しました。
アフロディテがパリスに約束した見返りが、『最も美しい女性』でしたが、その美しい女性がスパルタ王の妻であった為、王の怒りに触れ、これをきっかけにトロイア戦争が始まったという事件です。
この青年『パリス』と『Parisパリ』をかけて、パリの試飲会事件は「パリスの審判」と呼ばれるようになりました。
ギリシャ神話の『パリスの審判』も、パリの試飲会の『パリスの審判』もどちらも、「一つの審判が後にこんな大ごとになるとは…。」という所が共通している為、とてもしっくりくる表現なのです。
どういう試飲会だったのか?
そんな、後に大ごとをもたらしたパリの試飲会とは、どんな試飲会だったのでしょうか?
1970年代、ワインと言えばフランスという位、フランスワインは世界の絶対的なトップに君臨していました。他に評価されていたのは、スペインやイタリア、ドイツのワインなどであり、アメリカ、オーストラリアなど、いわゆるニューワールドは足元にも及ばない、と見なされていました。
そんな時代に、パリでワインスクールとワインショップを経営していた、イギリス人のスティーヴン・スパリュア氏が、自身のスクールとショップの宣伝として、ある試飲会を思いついたのです。
アメリカ独立200周年を記念して、独立時に大きな役割を果たしたフランスに敬意を表し、パリでカリフォルニアワインのテイスティングを行う試飲会でした。まだまだ知名度の無かったカリフォルニアワインの素晴らしさを少しでも知ってもらいたい、と思っての事でした。
その試飲会の審査員として招かれたのは業界権威のフランス人9人。試飲するワインは、カリフォルニアのシャルドネの白ワインと、カリフォルニアのカベルネ・ソーヴィニヨンの赤ワイン。
ただ、その際に、ベンチマークとして、カリフォルニアワインを負かすであろう高品質のフランスワインを含める事にしたのです。ラインナップは赤も白も、カリフォルニアワインが6本にフランスワインが4本ずつの合計10本になりました。
偏見を取り払ってもらう為、ブラインドテイスティングで行われたその試飲会の結果は、衝撃的なものでした。
白も赤もフランスワインが圧勝するだろう、という予想に反して、どちらも1位はカリフォルニアワインだったのです。
その時の9人の審査員とは?
その時の9人の審査員とは下記の通り。
▶ピエール・ブレジュー氏 … A.O.C.委員会の統括検査官
▶クロード・デュボワ・ミヨ氏 … グルメガイド(仏)『ゴ・エ・ミヨ』誌の販売部長
▶ミシェル・ドヴァズ氏 … アカデミー・デュ・ヴァン講師
▶オデット・カーン氏 … ワイン専門誌(仏)『レヴィ・ド・ヴァン・ド・フランス』の編集者
▶レイモン・オリヴィエ氏 … フランスを代表するレストラン『ル・グラン・ヴェフール』のオーナーシェフ
▶ピエール・タリ氏 … シャトー・ジスクールのオーナー
▶クリスチャン・ヴァネケ氏 … 三ツ星の名門レストラン『トゥール・ダルジャン』のシェフ・ソムリエ
▶オベール・ド・ヴィレーヌ氏 … ロマネ・コンティ社の共同経営者
▶ジャン・クロード・ヴリナ氏 … タイユヴァンのオーナー
ワイン、グルメの超一流達を中心に構成されています。
テイスティングはこのような結果に
試飲会は1976年5月24日、パリのインターコンチネンタル・ホテルで行われました。9人の審査員によって、20点満点で点数が付けられ、白ワインの結果はこのような感じでした。
■■ 白ワイン / シャルドネ主体 ■■
1位 シャトー・モンテレーナ 1973年 【米】
2位 ムルソー・シャルム/ルロー 1973年【フランス】
3位 シャローン 1974年 【米】
4位 スプリング・マウンテン 1973年 【米】
5位 ボーヌ・クロ・デ・ムーシュ/ジョセフ・ドルーアン 1973年【フランス】
6位 フリーマーク・アベイ 1972年 【米】
7位 バタール・モンラッシェ/ラモネ・プルドン 1973年【フランス】
8位 ピュリニー・モンラッシェ/ルフレーヴ 1972年【フランス】
9位 ヴィーダー・クレスト 1972年 【米】
10位 デイヴィッド・ブルース 1973年 【米】
時間の関係上、赤ワインの試飲が始まる前に、その場で白ワインの審査結果が読み上げられました。
もちろん、審査員達はざわつき始めます。そして、「フランスワインを探して高評価を付けねば」、という心理で赤ワインの試飲がなされた訳ですが、結果はまたしても、驚くものでした。
■■ 赤ワイン / カベルネ・ソーヴィニヨン主体 ■■
1位 スタッグス・リープ・ワイン・セラーズ 1973年 【米】
2位 シャトー・ムートン・ロートシルト 1970年 【フランス】
3位 シャトー・オー・ブリオン 1970年 【フランス】
4位 シャトー・モンローズ 1970年 【フランス】
5位 リッジ・モンテ・ベロ 1971年 【米】
6位 シャトー・レオヴィル・ラス・カーズ 1971年【フランス】
7位 マヤカマス 1971年 【米】
8位 クロ・デュ・ヴァル 1972年 【米】
9位 ハイツ・マーサズ・ヴィンヤード 1970年 【米】
10位 フリーマーク・アベイ 1969年 【米】
上位にフランスワインが集まったものの、赤ワインも1位はカリフォルニアだったのです。
その試飲会の後、どうなったか
ジャーナリスト達の試飲会への注目は低かった為、会場に取材に来ていたのはスパリュア氏のワインスクールに通っていた事がある、タイム誌の記者、ジョージ・M・ティバー氏、一人でしたが、彼がいた事で、彼のタイム誌の記事を始めとして、この結果は大きく世界に広がっていきました。
それは当時の人々にとって大きな衝撃でした。ワインの大国、フランスの権威達が、カリフォルニアワインが世界レベルであると認めたのです。この事件をきっかけに、ニューワールドでも素晴らしいワインが造れる事を世間は認め始めました。
この事はアメリカだけでなく、他のニューワールドの生産者達に大きな勇気を与えました。また、フランスの生産者達も世界に目を向けるようになり、世界中で情報交換がなされるようになったりと、大きな転換期となりました。
なぜ審査員達は参加したのか?
この試飲会で、結果的に自国のワインの評判を落とすようなジャッジをしてしまったフランス人の審査員達は国内のあちこちから非難を浴びました。
何故、彼らはそんなリスクのある試飲会に参加したのでしょう?優秀なテイスター達は、彼らの試飲結果がどんな影響力があるか理解していたはずです。参加に慎重にならなかったのでしょうか?
理由は、『こんな対決形式のテイスティング』だと、知らなかったから、です。
試飲会を取材していたタイム誌のテイバー氏の著書、『パリスの審判』によると、審査員達は、「カリフォルニアワインの試飲会である」との事でスパリュア氏に招待され、当日も彼から、「フランスワインも混じっている」という程度の説明を受けただけ、との事。
もしも、事前に、「フランスワインとカリフォルニアワインで対決させます」と説明を受けていたら、参加を拒否した人は少なくないでしょう。
写真:ティバー氏の著書『パリスの審判』の翻訳本
ワインの状態に不公平はなかったのか?
当時も世間では、「ワインの状態に不公平はなかったのか?」という点が議論された、というように、ワインの状態はどうだったのか、という点は気になります。
まず、書籍『パリスの審判』によると、試飲会のカリフォルニアワインは、スパリュア氏がカリフォルニアで集め、1976年5月7日に飛行機でフランスに持ち込みました。24日が試飲会でしたから、試飲会の2週間少し前の事です。対して、フランスのワインは、スパリュア氏の店の在庫から準備されました。
そして、5月7日以降、カリフォルニアワインは一緒に試飲するフランスワインと共に、スパリュア氏が12℃で管理されたセラーで保管していました。
スパリュア氏のスクールの講師をしていたアメリカ人女性、パトリシア・ギャラガー氏がそれらのワインを、パリ市内の店のセラーから同じく市内にある試飲会場のホテルに、車で持ち込んだのが午後1時半。試飲が始まる午後3時の1時間半前でした。
ワインの到着後、ギャラガー氏の指示のもと、待ち受けたホテルのスタッフがまずは赤ワインを抜栓。デキャンティングを兼ねて、別のボトルに移し替えられました。
そして試飲会の1時間前である午後2時に、白ワインも赤と同じく別のボトルに移し替え、氷入りのバケツで冷やされました。カリフォルニアワインもフランスワインも同じ条件です。
これだけの格のワインを試飲するのならば、ホテルに持ち込むのはもう少し早くても良いのでは?という思いは置いといて、フランスワインが不公平に扱われた、とは思えませんね。むしろ、試飲会の2週間ほど前に本国から移動してきたカリフォルニアワインの方が不利であった位ではないでしょうか?
2種類の結果が世間に存在している
ちなみにですが、世間には2種類の結果が存在しているようです。
ネットなど色々見ていると、どのサイトも基本、審査員達の平均点を載せている事が多いのですが、その平均点も少し違いがあります。
( ※ここから先は、赤ワインのみで見ていきます。)
まず、先ほども紹介した結果は、書籍『パリスの審判』の巻末に記載の採点表データ。点数は、記載してあった9人の合計点を、私が勝手に9で割った平均点です。
1位 スタッグス・リープ・ワイン・セラーズ 1973年 【米】 14.17点
2位 シャトー・ムートン・ロートシルト 1970年 【フランス】14.00点
3位 シャトー・オー・ブリオン 1970年 【フランス】 13.94点
4位 シャトー・モンローズ 1970年 【フランス】 13.56点
5位 リッジ・モンテ・ベロ 1971年 【米】 11.50点
6位 シャトー・レオヴィル・ラス・カーズ 1971年【フランス】 10.78点
7位 マヤカマス 1971年 【米】 9.94点
8位 クロ・デュ・ヴァル 1972年 【米】 9.72点
9位 ハイツ・マーサズ・ヴィンヤード 1970年 【米】 9.39点
10位 フリーマーク・アベイ 1969年 【米】 8.67点
次に、下記が、試飲会に登場した、あるワインの生産者のHPにあったデータです。
1位 スタッグス・リープ・ワイン・セラーズ 1973年 【米】 14.14点
2位 シャトー・ムートン・ロートシルト 1970年 【フランス】14.09点
3位 シャトー・モンローズ 1970年 【フランス】 13.64点
4位 シャトー・オー・ブリオン 1970年 【フランス】 13.23点
5位 リッジ・モンテ・ベロ 1971年 【米】 12.14点
6位 シャトー・レオヴィル・ラス・カーズ 1971年【フランス】 11.18点
7位 ハイツ・マーサズ・ヴィンヤード 1970年 【米】 10.36点
8位 クロ・デュ・ヴァル 1972年 【米】 10.14点
9位 マヤカマス 1971年 【米】 9.95点
10位 フリーマーク・アベイ 1969年 【米】 9.45点
先ほどのものと少し順位が違います。オー・ブリオンとモンローズの順位が入れ替わっていて、マヤカマスの順位が2ランク下です。順位に加えて、点数も微妙に違います。
何故違うのか?
それは、『9人の審査員の評点の平均点』と、『11人の評点の平均点』の差でした。
11人?
そうですよね、誰?ってなりますね。
11人の方に含まれているのは、主催者のスパリュア氏とスクール講師のギャラガー氏です。
彼ら二人も、審査員の横で自分達なりの点数を付けていたのですが、その点数が含められた11人の評点の平均点です。
書籍『パリスの審判』によると、公式の審査結果は、『9人の審査員の評点』であった、と記載があるので、スパリュア氏の意図としては、9人の集計点が公式結果なのですが、世間では二人の評点が含まれた11人の集計点も、データとして認知される事があるようです。
試飲会のその後のその後 〜リターン・マッチ〜
世界中がパリ試飲会の結果に驚き、大きな騒動となった訳ですが、もちろん、フランスからは様々な反論が出ました。
「騙し討ちではないか!」
「採点方法は100点満点であるべきだったのでは?」
「カリフォルニアワインが6本、フランスワインが4本は不公平だ!」
「熟成して良さが出るフランスワインは、ヴィンテージが若すぎて不利だった!」
などの意見です。
そう言った反論を受け、その後、いくつかリターン・マッチが行われました。
その中で代表的なものが、まず、10年後の1986年9月に、スパリュア氏が手伝い、ニューヨークのフランス料理協会が10周年の記念として行った試飲会。結果は、下記の通り。
1位 クロ・デュ・ヴァル 1972年 【米】
2位 リッジ・モンテ・ベロ 1971年 【米】
3位 シャトー・モンローズ 1970年 【フランス】
4位 シャトー・レオヴィル・ラス・カーズ 1971年 【フランス】
5位 シャトー・ムートン・ロートシルト 1970年 【フランス】
6位 スタッグス・リープ・ワイン・セラーズ 1973年 【米】
7位 ハイツ・マーサズ・ヴィンヤード 1970年 【米】
8位 マヤカマス 1971年 【米】
9位 シャトー・オー・ブリオン 1970年 【フランス】
(※フリーマーク・アビーは不参加)
またしても、アメリカワインが1位になりました。
ただし、この試飲会はアメリカで行われ、審査員は全てアメリカ人であったので、その点を指摘する人は多いでしょう。
次に、最初の試飲会から30年後の2006年5月24日に行われたリターン・マッチ。この試飲会はロンドンとナパの2会場で、通信で繋いで同時進行で行われました。審査員は下記の通り。
【ロンドン会場】
▶ミッシェル・ベタンヌ氏 …フランスのワイン評論家
▶マイケル・ブロードベント氏 …イギリスのワイン評論家
▶ミッシェル・ドヴァツ氏(※) … フランスのワイン評論家、元アカデミー・デュ・ヴァン講師
▶ヒュー・ジョンソン氏 … イギリスのワイン評論家
▶ジャンシス・ロビンソン氏 … イギリスのワイン評論家
を含む9名
【ナパ会場】
▶アンソニー・ディアス・ブルー氏 … アメリカの雑誌“The Tasting Panel“のライター
▶ピーター・マークス氏 … マスター・オブ・ワイン(アメリカ人)
▶クリスチャン・ヴァネケ氏(※) … ソムリエでレストランオーナー(フランス人)
▶ダン・バーガー氏 … アメリカのワイン評論家・コラムニスト
を含む9名
(※)… この二人は1976年のテイスティングの審査員
ワイン界のトップとも言える面々が揃い、会場もロンドンとカリフォルニアと、十分な条件のもと行われました。
その結果は、
1位 リッジ・モンテ・ベロ 1971年 【米】
2位 スタッグス・リープ・ワイン・セラーズ 1973年 【米】
3位 ハイツ・マーサズ・ヴィンヤード 1970年 【米】
4位 マヤカマス 1971年 【米】
5位 クロ・デュ・ヴァル 1972年 【米】
6位 シャトー・ムートン・ロートシルト 1970年 【フランス】
7位 シャトー・モンローズ 1970年 【フランス】
8位 シャトー・オー・ブリオン 1970年 【フランス】
9位 シャトー・レオヴィル・ラス・カーズ 1971年 【フランス】
10位 フリーマーク・アビー 1969年 【米】
またしても、カリフォルニアワインが1位になっただけでなく、上位を占めたのです。
条件を変え、熟成させたワインで試飲をしてもこのような結果が出た事で、アメリカでもフランスに比類する品質のワインを造る事ができるのだ、と世間を納得させたのです。
最後に
歴史に残る大事件、パリスの審判。個人的には、試飲会後の混乱、審査員へのその後の影響の事を考えると、もう少し別のやり方で出来たらよかったのにな、と思う所はあります。
当時スパリュエ氏は34歳。若さもあったのかな、と思うけれど、でも、若かったからこそ、こんな革命的試飲会を行う事が出来たのかもしれません。その後のワイン業界の良い意味でのドラマチックな変化を考えると、彼の果たした功績は何と大きい事でしょう。
スパリュエ氏はその後もワイン業界で活躍。2018年にデキャンタ―誌にて、『マン・オブ・ザ・イヤー』に認められ、2021年にこの世を去りました。
試飲会に登場したワインの現在の市場の取引価格を見ると、例えばスタッグスリープで3〜5万程度で販売されているのに対し、ムートン・ロートシルトが10万前後という感じです。もちろん、フランスワインの長き伝統的価値は否定できませんが、カリフォルニアワインはもう少し高い評価をされても良いのかもしれません。
さらり、と書くつもりが長くなりました。パリ試飲会というのは、間違いなく今後もワイン史に残る革命的な出来事であったのだな、と痛感する次第です。「テロワールとは」「伝統とは」「ワインの評価とは」等、様々な問題を我々に提起してきます。
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